試し書きだらけのノート

日々のあれこれ。

途中から何が言いたいのかわからなくなってしまった

「強がり」決しては「強く」はない。
寧ろビビリだから、強がっている。
毎日何度も自分で言い聞かせる「大丈夫」。
毎日言い聞かせられた「貴女はあのおばあちゃんの孫で私の娘だから強い」。
そう、確かに私の祖母は強かった。母もまたサバイバーであり、逞しく生き残るしかなかった人だ。確かにこの2人はとても強い。
けれど私は同じ人間ではないので、その言葉を暗示のように自分の中で繰り返した。
あの2人に恥じぬように居なければと。

無視をされても気にしないふりをした。
なら別の子に話しかけてその中にいようとした。
本当は辛かったし痛かったし苦しかった。
悪口を大声で言われても何が?という顔をした。
本当は全部胸の中に刺さっていた。
「土下座しろ、謝れ」とありもしない事で繰り返させられた土下座には真顔だった。
形式的に膝を折って額を床に擦り付けた。そうしなければ終わらなかった。
悔しかった。全員に殴りかかりたくて仕方なかった。お前達は何様なんだと心底腹が立った。
私は「強い」から「弱いやつらの相手はしない」そう言い聞かせて生きてきた。
強がって、強がって、本当の感情が何だかわからなくなってしまった。
帰ってからは今日も相変わらずだったよ、と淡々と答えて、あとは心配をかけさせまいといつものように振る舞った。

だから咄嗟に口から出る言葉はいつも「大丈夫」。
私なら何にでも対応できるから気にしないでねオッケー!って気楽に言ってしまうけど何一つ大丈夫じゃなかったりして、どう大丈夫にしようか落とし所を必死に考えたりしている。
明らかに表情に出ているほど弱っている時に、相手から何かを聞かれても答えられない。
明らかに原因がわかっていても「いつものことだから気にしないで」って笑う。
いつものことってもう何年やってんだ。
人に頼るということがどういうことなのかよくわからない。
これを身につけなければ社会はとても生きにくい場所なのに今でもどうしたら良いのかわからない。
素直に言って良いのだろうか。けれど迷惑をかけないだろうか。私自身で何とか出来ないだろうか。頭の中でぐるぐるとしてしまう。

自分から言わなきゃ、相手には伝わらないんだ。
年々そう思うことが増えた。自分からきちんと伝えることの大切さ。
それが例え相手の望む100点満点の答え出なかったとしても、まず伝えてみること。
自己完結で全てをやってきた人間にとって、このコミュニケーションが一番難しい。
自己完結ほど身勝手で我儘なものも無いのだけれど。

もう少し心を柔らかくして、もう少し人に心が開けるようになりたい。

切り落とされていく髪にいつもさようならと口にする

髪を切りました。
ショートがベリーショートになりました。
襟足がスッキリして気持ち良いです。
しかし美容室は疲れますね。全身が強張ってしまって今は肩こりが尋常じゃないです。

しかしイベント後から体調を崩しています。
過労だと思うのですが、普通にご飯を食べると消化不良を起こして吐いてしまうので少量のご飯と胃薬で対応しています。
冬季うつ明けからの野外一日はやっぱりそれなりに負担がかかるのですね。
それでも当日はほぼやることもなく(SNSは更新し続けていましたが)、本当に自由にふらふらとしているだけでした。
他のメンバーが6時集合しているのを私は8時にしてもらったり。
それでも私の体はまだこれだけダメージを受けるのね、と勉強になりました。
イベント明けからなんだかんだ一日何もしないという日を作ってないのもよくないのだと思います。
明日辺りはゆっくりしようと思います。
私をよく知る人にも「今のあなたは今までのあなた以上に体力がないんだから特にイベントなどは考えないといけないよ」と注意されました。
本当にそうです。気をつけなければ。

イベントが明けてからは、夕方になるにつれて体調ががっつり悪くなります。
それまでは何かしら出来るのですが、その何かしらをやるせいなのか力が全てなくなって、夕飯を食べるのも精一杯な現状です。
体力づくりをしなければなりません。
ここまで弱っていると思っていなかったんだ、正直な話。
メンタルが弱っているのは自覚していたけど体もここまでボロボロだったんだねぇ。
私は体への気遣いが足りなさすぎる。
ちゃんと意識してあげないといけませんね。
「なんとかなるでしょう」はやめることにします。きちんと計算をして動きます。

とりあえず早く胃の不調よ、治ってくれ。
結構ストレスだぞ。自分が悪いのだけどね。

医師から「もう頑張るな」と言われてから、なんだか心が非常に楽になりました。
ああ、いいんだね、焦らなくていいんだねってやっと自分に言い聞かせられそうです。
無意識に頑張ってしまう癖がついているのも治さなければなりませんね。
きちんと今出来ることと出来ないことの判別ができるようになるのが今の課題です。

そうそう。上記のイベントで私は中心メンバーとして立ち上げから会議などに出席してイベントを開催したのですが、謝礼をいただきました。
今年は満足に体も動かず、自分の思う形の広報が出来なくて悔しかったのですが、有難く頂くことにします。
私、お金稼いだよ。自分のやったことが仕事になったよ。それがとても嬉しかったです。

今日の病院メモ

どうにも前回の診療のモヤモヤが激しいので医師と一発やりあってくる。言い方を間違えました。話し合ってきます。伝えたいことは全部紙に書きました。
あと頓服は合いませんでしたので変更してもらいます。睡眠導入剤の変更も願い出ます。

「もう頑張らなくて良いよ」って医師に言われて涙腺崩壊した。

「そんなに焦って治療しようとしないでいいんです。自己治癒力も信じてゆっくりやりましょう。ね、もう頑張らなくていいから。そのままでいいから、ゆっくり前に進みましょう。必ず治るから」

「私は私のペースで人生を歩んでもいいんですかね。わからないのです。焦るのです」
主治医「僕なんて医大入り直したの37だからね!?楽しく生きてりゃ何だってできますわね!まずは頑張らないでいなさい」

私の二十代は他人に捧げた二十代でした。私の三十代は私に全てを捧げます。

主治医が私にくれた大切な詩


私は私を探し出す旅に出ようと思います。
抑圧して殺してきた自分の声をきちんと聞く年にしようと思います。
もう、他人よりも自分が大事です。
痛くないわ、なんて嘘。痛いんです。
こんなの平気よ、なんて嘘。苦しいんです。
だからもういい子ちゃん終わりです。
君の病気は時間がかかるよと改めて言われました。
主治医もおそらくもうすぐ70です。彼が生きているうちに減薬して卒業したいです。
ほら、話せばちゃんと分かり合える。
11年間あなたを信じてよかったな。
ありがとう。私を入院病棟に送らないで見守ってくれて。

大好きだけどとことんクズだったね

祖父は中国で捕虜になって帰国して、教え込まれたことと現実の差についていけずに毒薬を飲んだ。顔が歪みはしたが生き残った。
そして私の祖母と結婚し、自分の寿司屋を持つも失踪。ある寺で倒れているところを保護された。持っていたのは娘の写真一枚。
寺に精進料理を作る料理人として数年いたらしい。そして仙台に移った。
その間に祖母はしっかりと離婚している。
そこでおばちゃんと出会う。2人目の妻だ。
祖父は所謂ヒモになった。おばちゃんはキオスクのおばちゃんとして稼ぎながらクズな旦那を愛した。
祖父は愛人もいた。夜の店をやっている女性から金を出してもらい自分の寿司屋を再び持った。今度は寿司屋の大将として弟子もいた。
そんなある日祖父の母が死に、葬式に出るために実家に帰って来たところで私に会う。
当時私一歳半。祖父が失踪した当時の母の年齢と同じだ。そして私と母は似ている。
それから祖父は人が変わったかのように妻には内緒で地元にやって来た。私に会うために。
母と私が被って仕方なかったのだと今は思う。
そして我が家の敷地も跨いだ。跨がせた祖母を私は本当にすごい人だと思う。
私は祖父の膝の上に座っていた記憶しかない。顔も歪んでいたのだろうけれどニコニコ笑う優しいおじさんという記憶しかない。
あれが私の祖父だったと知らされたのは祖父が死んでからだ。
祖父の最後は呆気なかった。急性白血病でころりと死んだ。娘に看取られながら。
クズな人生を生きた人の最後にしては幸せすぎたと思う。
そんな祖父はヤのつく稼業の人に慕われる性格だった。一度出前が来たのでいざ届けたら金を払わないと言い出し、祖父がブチ切れて事務所に乗り込んだ。
そこで思いっきり啖呵を切って言い負かしてからやたらと親しくなってしまったそうだ。
祖父は見栄っ張りな人だった。本当は弱い人だったが、人前ではいつだって強気に見せた。
馬鹿な人だったのだ。本当に弱く情けない馬鹿な人だったのだ。
私には戸籍上祖父はいない。けれど、こんなクズでどうしようもなかった人を私は祖父として認識している。血は繋がっているから。
皇室の前で包丁式までやった立派な職人でもあったが、ただどうしても人としてクズだった。

だから私は見栄っ張りが嫌いだ。祖父を思い出すからだ。見栄っ張りはとにかく人に迷惑しかかけない。素直が一番いい。
だけど私自身見栄っ張りだ。馬鹿なのだ。その見栄というのは健康的な意味で強がるという意味だけれど。本当に困ったものである。そんな自分も大嫌いだ。

何故祖父のことまで書いたのだろう。暇だったからというのもあるけれど、取り敢えず書き残しておきたかった。
こんなにもクズでどうしようもない祖父を私はやはり嫌いになれず、ああもう情けないと思いながらあの日の膝の上のぬくもりを思い出してはにんまりしてしまうのだ。

折れるなら根元から思いっきり折れた方がいい

今日はいろんな懐かしい人に会った。
久しぶりの野外イベントだった。
1月から会議を重ねてきた当日で、ああやっとここで無事に終われば一仕事が終わると思った。
私に出来ることは文章を書くことだ。
だから人の文章を推敲したり、申請書の筋書きを作ったり、ウェブでの告知をしたりしていた。
長かった。冬季うつと春うつの私には重い時期の仕事だ。毎回このイベントは私にとって一番苦しい。
それでも何故やるか、人との関わりを絶たずに生きるためだ。人から何かを得るためだ。自分に刺激を与えるためだ。そして私もいつか何かしらで…と社会と繋がる結びつきが欲しいからだ。
とりあえず、無事に終わりました。


今日は「あなたはまずあなたを受け入れるところからだね」と長年の私を知っている方々から言われた。
あと、「明らかに何か変わったことがあったでしょう?それね、良かったと思うよ」とも言われた。
思いっきり笑ってしまった。その通りなのだ。
まず、私は私のままでいいの前に、私は私を受け入れるところをすっ飛ばしていた。
だから私はもがいた。何者かになろうとして必死にもがいた。所詮自分は自分でしかないのに。

根っこから根こそぎ折られてから、私は私を初めて眺めた気がする。なんて弱々しく細々とした体なんだろうと驚いた。何故こんなにも傷だらけなんだろうと。手も足も酷いじゃないか。
素足じゃないか。抵抗する武器も持たずにここまで来たのか、と初めて知った。

「私は私でいいのよ」はスタート地点でしかない。私が私であるためには必ず何かが付きまとう。それは人によって違う。レベルも違う。だから人と比べる必要もない。
しかし「私は私でいいのよ」のスタート地点にも立てていなかったのだ。ずっと。
だから私はまず出来損ないの武器も持たない弱っちい私を受け入れるところから全てが始まる。
「私は私でいいのよ」と言うために努力するのは次のステップだ。私が私であるためには何が必要で何が不必要か。私が最も自分を愛せるように何が出来るか。それは取り敢えず次のステップ。でもやることはわかっているから、有難い。
「私」は日々変化していく。2年前とも、1年前とも、1ヶ月前とも違う。その時に合わせて私は私を構築する。
きっと慢性疾患の病に体をあちこち引きずられながら。障害と名前がつくと流石に笑う。私は障害者だ!って顔で生きるのは嫌だから、私は私だから。
でもまあ病には時に勝てない。日々一歩一歩ちょっとした何かからしか始められない。
明日の私はきっと今日使い切ったエネルギーでパタリと倒れているだろうし。

まずは己を知る。弱くてダサくて惨めでみっともなくてもいい。ここまで生きてきてくれて有難うって今は私は私に言いたい。

まり子姐さん

タイトルは私の祖母のもう一つの名前だ。
祖母は芸妓だった。女手一つで母を育てた。
客を叱りつけることも当たり前にする三味線弾きで謡唄いだったそうだ。
ただ化粧水とクリームを塗って、紅を引く。
化粧はたったそれだけ。あとは髪を結って着物をしっかりと着る。戦闘服だ。
私は自分の祖母のことをあまり知らない。
ただ、生い立ちとどういった仕事をして居たかと、私を叱りつけたり私と遊んだりした無口な姿と、病に伏せて寝たきりになった姿しか知らない。
祖母の口から子育ての話や仕事の話、生い立ちの話や今幸せがどうかなど何一つ聞けぬまま祖母は逝った。私が12歳の時だった。
9歳で寝たきりで話せなくなったので、実質祖母と話せて居た時間は短い。
祖母はしなやかな強さではなく、石臼のような強さの人だった。
どんとそこにいて、退かない。
行くものは追わずにくるものは拒まない。
その代わり愛想もない。無口な人だった。
そんな祖母が私はとても好きだった。
日本舞踊もお茶もできた。三味線も弾ければ歌も歌えた。私の知っている祖母の顔にはどれも無いけれど。
まり子姐さんとして立っていたあの瞬間、祖母はどんな思いでいたんだろうと時折思う。
一人娘の子供を夜家に置いて芸妓という仕事を続けている自分に何を思っただろうと。
祖母はぐちぐち言わない人だった。不機嫌になると口を閉ざしてただ黙り込む人だった。
私はそこも好きだった。でもあれは何を考えていたんだろうと今では思う。
周りから様々なことを言われても堂々と生きた祖母を私は誇りに思う。私は祖母が好きだ。
祖母も一度は毒薬を飲んで自殺を図っている。
発見が早くて助かった人だ。
あの人ですらやめようと思った人生だ。人生ろくなもんじゃない。ただ、私はまだかろうじて生きている。それだけのこと。
まり子姐さん、そしておばあちゃん、私は今日も誘惑に勝って生き残りました。

周りの死んだ人々のことをたくさん思い浮かべてしまう日が多い。
あの人たちは何を考えていただろうと。
思えば私は何も話を聞き出していなかったな、と気づく。あれだけの時間があったはずなのに。
あるおばさんは私が偶然撮った写真をたいそう気に入って「これを遺影にしてね」と言った一週間後に本当に亡くなってしまった。突然死だった。
そしてその写真は本当に遺影になってしまった。それから数年、私は人を写真に撮ることが怖くなったけれど今は大丈夫。
私は誰のことも何も知らない。わからなすぎる。一面すらも知れていない。
最近そんなことをよく思う。そして誰も私の一面すらも知らないのだ。

生きてるって実は凄いことだと思わない?

日記を書きます。
今日は全国的に低気圧でしたね。
私も見事にやられました。虚無の世界でした。
珍しく頭痛がないかと思いきや体が全く動かないという状態。これも困るのです。
気圧で負けない体になりたいなぁと思いました。そんな私は幼少期から気圧がダメです。

読書が苦手なんだという話をしました。
書いてあることを覚えながら先に進むというのが苦手らしいです。その人は人との会話も忘れることが多い人です。
文章にするとわからなくなるのなら、文章から理解した知識を図にしてみたらどうだろう?と提案してみました。
というのも、文字を追っていても頭に入らないものは形を変えなければ仕方がないからです。
そして実用書の場合は余計メモを取りながら自分がどこまで把握しているかを確認すると捗ります。
把握の目安は、「ここまでなら人に説明できるぞ」だと思います。
この勉強方法は専門学校の検定前によくやらされたことで、イラストにして図として把握することや、とりあえず口に出してみて自分の言葉に置き換えながら把握出来ているか確認してみるとか、とにかく図に書いて書いてを続けるだとか、ついていけていない友人に説明をすることで自分がどこまで把握しているかを客観的に知る等をしました。
一番いいのは取得経験のある人間がどういった勉強方法で取得したかをまず聞いてみることだと思います。
苦戦せずに読んでればいけたよーって人もいれば、自己流でやっている人もいるわけで。
そしてわからない部分はしっかりわかる人に聞き回る意識を持つことが一番大事だと思います。わからないは、恥ずかしいじゃない。迷惑じゃない。
そんなことよりもその人が勉強に割く時間すら無いのが一番問題だなと思っています。

こちらの県でも桜が見事に咲き始めたそうです。桜で有名な公園は見頃間近。
私は行ったことがないのでさっぱりわかりません。
雪が降らない地域はやはり開花が早いなという印象がありますね。
関東はもう葉桜に近いのかな。もっと南の方は完全に散ってるんだろうな。
この時期は昼と夜の寒暖差の激しさにエネルギーが消耗されます。
春は疲れる時期ですね。新年度、新生活、寒暖差、気圧の変化。
みんなみんな体を大事にしていてください。

眠剤がまるで効かないことに驚きながらもうここまで文章を打ち込んでしまいました。
少し多めに飲んだのですがサッパリですね。
いつもなら書いているうちに眠ってしまうのだけれど。
これもまた相談かな。医師と話すことが山積みです。
さあ、明日も1日生き延びようね。