試し書きだらけのノート

日々のあれこれ。

折れるなら根元から思いっきり折れた方がいい

今日はいろんな懐かしい人に会った。
久しぶりの野外イベントだった。
1月から会議を重ねてきた当日で、ああやっとここで無事に終われば一仕事が終わると思った。
私に出来ることは文章を書くことだ。
だから人の文章を推敲したり、申請書の筋書きを作ったり、ウェブでの告知をしたりしていた。
長かった。冬季うつと春うつの私には重い時期の仕事だ。毎回このイベントは私にとって一番苦しい。
それでも何故やるか、人との関わりを絶たずに生きるためだ。人から何かを得るためだ。自分に刺激を与えるためだ。そして私もいつか何かしらで…と社会と繋がる結びつきが欲しいからだ。
とりあえず、無事に終わりました。


今日は「あなたはまずあなたを受け入れるところからだね」と長年の私を知っている方々から言われた。
あと、「明らかに何か変わったことがあったでしょう?それね、良かったと思うよ」とも言われた。
思いっきり笑ってしまった。その通りなのだ。
まず、私は私のままでいいの前に、私は私を受け入れるところをすっ飛ばしていた。
だから私はもがいた。何者かになろうとして必死にもがいた。所詮自分は自分でしかないのに。

根っこから根こそぎ折られてから、私は私を初めて眺めた気がする。なんて弱々しく細々とした体なんだろうと驚いた。何故こんなにも傷だらけなんだろうと。手も足も酷いじゃないか。
素足じゃないか。抵抗する武器も持たずにここまで来たのか、と初めて知った。

「私は私でいいのよ」はスタート地点でしかない。私が私であるためには必ず何かが付きまとう。それは人によって違う。レベルも違う。だから人と比べる必要もない。
しかし「私は私でいいのよ」のスタート地点にも立てていなかったのだ。ずっと。
だから私はまず出来損ないの武器も持たない弱っちい私を受け入れるところから全てが始まる。
「私は私でいいのよ」と言うために努力するのは次のステップだ。私が私であるためには何が必要で何が不必要か。私が最も自分を愛せるように何が出来るか。それは取り敢えず次のステップ。でもやることはわかっているから、有難い。
「私」は日々変化していく。2年前とも、1年前とも、1ヶ月前とも違う。その時に合わせて私は私を構築する。
きっと慢性疾患の病に体をあちこち引きずられながら。障害と名前がつくと流石に笑う。私は障害者だ!って顔で生きるのは嫌だから、私は私だから。
でもまあ病には時に勝てない。日々一歩一歩ちょっとした何かからしか始められない。
明日の私はきっと今日使い切ったエネルギーでパタリと倒れているだろうし。

まずは己を知る。弱くてダサくて惨めでみっともなくてもいい。ここまで生きてきてくれて有難うって今は私は私に言いたい。